当前位置:

中日对照——邻居

发表时间:2012/2/1 13:09:56 来源:互联网 点击关注微信:关注中大网校微信
关注公众号

为了您更好的进行日语学习,小编整理了日语学习相关资料,希望对您的日语学习有所帮助!

 隣の住人

新藤兼人

歳月がながれて三十数年ぶりだった。新闻社の取材に応じて、京都下鸭宫崎町、鸭川のほとりを访れた。

新闻社の夕刊には、青春の地を访ねる连载があった。私にもその注文が来たのである。

四条大桥の西侧たもとで待ち合わせることにした。私は东京から、新闻社の人は大阪からである。小雨が降っていた。约束の十时前に新闻社の车がきた。

その界隈の町并はほとんど変っていない。銭汤も邮便局も小学校もそのままだ。変っているのは松竹下加茂撮影所が、某会社の仓库になっていることだ。その小路は、撮影所のすぐ近くにあった。

通りで车を下りて、小路へはいっていくと二轩长屋がある。この一轩に私は、昭和十七年春から十八年の秋まで住んだ。

二阶建ての长屋だったが、これ以上小さくは作れないだろうと思えた。阶下が二畳と四畳半、二回が三畳と六畳、京都式の玄関から里へ通し土间があって、二坪ほどの植木のない庭があった。

むかしのままだった。时のながれが急に消えた。玄関の格子戸も二阶の窓も少しも変っていない。ただ、二轩がそのまま右へこころもちかしいでいた。

私が住んでいたのは向かって左である。玄関格子戸に手をかけたが开かない、见れば键がかかっている。隣の家の格子をあけて声をかけた。主妇が奥の四畳半から玄関の二畳へ现れた。私の家と同じ间取りなのである。

「隣にいた新藤ですが」

ああ、といったきり、主妇はその场に立ちすくんだ。

丸顔で小柄な人だった。化粧をしないのに白い顔だった。それがそのままである。変ったのは私であろう、白髪なのだ。

「お久しゅうございます」

「ほんまにもう、お懐かしゅうございますな」

「あの时はお世话になりました」

「なんやらもう、梦を见てるようどすな」

主妇の目には涙が光った。

东京から京都へ移ったのは昭和十七年四月である。尊敬していた沟口健二监督に师事するためだった。所属していた东京の映画会社をやめて、见知らぬ京都へ移るのは勇気のいることだった。私一人ではとてもふみきれなかったであろう、妻がすすめてくれたのである。私は二十九歳、妻は二十五歳、结婚して二年目だった。

私は売れないシナリオを书いているシナリァ¢イターだった。自分の才能を信じた时期があった。间もなく壁にぶっつかる。才能を疑う季节がやってきた。周囲がみな厚い壁になる。脱出しなければ....たった一本いいシナリオを书ければそれで事は片づくのだが、それが出来ない。京都へ移ったのは脱出の试みだった。

世帯道具は何もなかった、东京へ置いてきたのではない、はじめからそれらしき物を持たなかったのである。私たちは贫しかった。古机と蒲団があるだけだ、狭い长屋ががらんとしていた。

下鸭の町も小路の中の人も、见知らぬ他人であった。隣の若い细君だけが亲しい声をかけてくれた。ご主人は市役所へ勤めているということで、早い时间に出かけ、夜は遅かった。家计は决して豊かには见えなかったが细君の顔はいつも明るかった。主人を送り出すと扫除である。古びた表の格子に丹念な雑巾がけをした。夏冬つねに和服で、夏は洗いざらしの浴衣に糊を厚くつけて、ぴんと突っ张ったのを好んで着ていた。それはいかにも京女らしい风情だった。

私は、沟口健二监督に読んでもらうためのシナリオをいく本も书いたが、ついにものにはならなかった。外には毎日のように出征兵士を送る歌が闻こえ、また戦死の遗骨を迎える行列があった。私と妻は、その歌や、その沈黙を、家の中で身をひそめて、息を杀し闻いた。私たちは大きく流れる时の中で、ただ抱き合っているほかはなかった。

妻が、突然、血を吐いて倒れたのは一年たった初夏だった。结核にかかったら死を待つほかない时代である。痩せ细り、八月の朝死んだ。

たった一人、隣の若い细君が、妻の死顔のそばににじり寄って、小さな体をかがめて泣いてくれた。

译文: 邻居

时过境迁,事情过去已经三十多年了。为了报社的采访,我又再一次来到了京都下鸭的宫崎镇鸭川河畔。

报社的晚报上有再访青春之地的连载,也向我订了稿。

约好在四条大桥西边的桥下见面。我从东京来,报社的人则是从大阪来。天空中下着小雨。在约定的十点之前,报社的车来了。

那一带街道的排列基本没变。浴池、邮局、还有小学都跟从前一样。只有松竹下加茂电影厂,变成了某家公司的仓库而已。那条胡同就紧挨着电影厂。

从路边下了车,走进胡同就看见两座大杂院。在昭和17年(公元1942年)春天到18年秋天这段时间,我就是住在其中的一座里面的。

虽说是两层的大杂院,却让人觉得不可能盖得比这还小了。楼下的两个房间是2张和4张半塌塌米大小(一张塌塌米约合1.56平方米),二楼是3张和6张,穿过京都式的门廊向里面走,是片连两株盆栽都没有的院子。

跟以前一样。突然感觉不到时光的流转了。不论门廊的拉门还是2楼的窗户,一点都没变。只是,那两座房子在右边勾起我的回忆。

我住着的是正面靠左的那间。手拉了一下门廊的拉门却没拉开,仔细一看原来是锁着的。拉开了隔壁的门喊了一声。那家的女主人于是从里面4张半的房间来到了外面的2张。格局与我家的一样。

“我是曾经住在隔壁的新藤。”

女主人啊的叫了一声,就呆呆地站在了那里。

她脸圆圆的,小个子。虽然没有化过妆脸却是白的。还都是原来的样子。变了的只有我吧,已经满头白发了。

“好久不见了。”

“真是的呀,太怀念了。”

“那时候多承蒙您照顾啦。”

“您这是说的哪里话呀,真像做梦一样啊。”

女主人的眼里闪着眼泪。

从东京搬到京都是在昭和17年的4月。是为了师从当时所尊敬着的沟口健二导演。辞掉东京的电影公司的工作,搬到陌生的京都是件需要勇气的事情。想我一个人的话是万万做不到这种地步的,是妻子在一旁给我鼓励。当时我29岁,妻子25岁,是结婚后的第2年。

那时候我是个写着卖不出去的剧本的剧作家。正处于相信自己才能的时期。没过多久就碰壁了。终于到了怀疑才能的季节。四周仿佛都成了厚厚的墙壁。不逃出来的话……哪怕只写出一本好的剧本也好啊,可是却终究也没能写出来。搬到京都其实也只是逃出来的一种尝试。

什么家具也没有带,并不是留在东京了,而是从来就没有过。我们很穷。有的只是旧桌子和铺盖而已,狭小的房子里显得空荡荡的。

在下鸭,不论街道上还是胡同里,所见的都是些陌生人。只有邻家的媳妇对我们挺亲切。那家的男主人由于在市政府工作,每天早出晚归。家境看来一点也不富裕,但媳妇的表情却总是显得很乐观。每天送走男主人就一定会打扫房子。在外面的陈旧的拉门上细心地挂上抹布。一年四季常穿着和服,夏天则吧洗好晒干的浴衣浆得厚厚的,穿起来硬整整的样子很是喜欢。那真是太有京都女子的味道了。

我写了好几部想让沟口健二导演看的剧本,却怎么也没写出部像样的。外面每天都能听见送走出征士兵的歌,有时也会有迎接阵亡战士遗体的队列。我与妻子两个人,躲在家里屏住呼吸听着那些歌和那些沉默。我们在那动荡的时代,只有紧紧抱在一起。

妻子突然吐血病倒,是有一年刚入夏的时候的事。那是个得了结核就只有等待死亡的年代。眼看妻子日渐消瘦,终于在八月的一个早晨死去了。

只有一个人,邻家的媳妇,跪在妻子的遗像前,哭着蜷缩成了一团。

相关文章:

标准日语词汇学习汇总

日语学习:同一词语的多种用法汇总

更多关注: 辅导用书  学习资料 学习方法  学习论坛

(责任编辑:xy)

2页,当前第1页  第一页  前一页  下一页
最近更新 考试动态 更多>
各地资讯

考试科目