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耻ずかしい话だが、宫岛大八という名も、张裕ザオという名も、私は初めて闻いた。いいわけをすると、このコラムの日本人执笔者の中で、中国の専门家でないのは私ひとりである。ほかの执笔者にとっては、当然知っておくべき有名な人物なのかも知れない。しかし、多くの日本人は私同様、この2人に関して、なにも知らないと思う。
日中间の争いは、太平洋戦争や日清戦争、さらに歴史をうんとさかのぼった戦争まで、日本史の授业で教えられる。また、一般向けの本もたくさん刊行されているので、みんな初歩的な知识は持っている。しかし、日中间の友情、それに尽くした人々の话となると、情报は极端に少ない。
戦争を常に思い出し、反省を重ねることは、同じ悲惨な事态を缲り返さないために、重要な営みである。だからといって、友情の足迹に无知でよいという意味にはならない。だが、あまり友情面に言及すると、戦争から目をそらそうとしているのではないかと受け取られたり、相手国におもねっているのではないかと思われたりすることが、日中间に限らず、ままある。
7世纪から9世纪にかけ、日本は隋、唐へさかんに公式使节を送り出した。船の难破で多くの死者、行方不明者を出しながらも、送り続けた。遣隋使、遣唐使といい、小学校でも教えられる史実だが、専门的研究者は他分野に比べて少なく、まとまった研究书も多くないのだそうだ。深く研究すると、日本の古代や中世の政治や文化の基盘が、ほとんど中国からもたらされた事実が明らかになり、自国の优位性を强调する戦前の风潮に合わなかったからだともいう。なんと狭量な学问的姿势だろう。
私はいま、仕事の関系で、9世纪中叶に唐に渡った円仁という仏教僧のことを调べている。遣唐使の一行から脱走する形で中国にとどまり、武宗が行った中国史上最大の宗教弾圧で追放されるまで、9年にわたって、各地を転々とした。宫岛大八と同じく、「师を求めて」の中国行きだった。その学问を志す情热には、すさまじいものがあり、苦労の末、长安にたどりついて、何人かの师に巡り会うことになる。
円仁は克明な日记をつけていて、中国の正史に欠落している贵重な记録もそのなかにはある。この日记が持つ世界史のレベルの価値を见いだしたのは、元驻日米国大使のライシャワー博士だった。日本の歴史家が国际関系の研究に冷淡だった证拠のひとつといえるかもしれない。
円仁の日记で印象的なのは、行く先々で出会う市井の中国人のこまやかな友情である。ある人は、远路の道案内を买って出る。ある人は、友人や宿舎を绍介する。またある人は、路用の衣类や食粮を准备してくれる。円仁は帰国後、有力な宗派の长となり、彼が中国で学んだ当时の最先端思想が日本に広まることになるが、长安の师だけが、それに贡献したわけではない。円仁の仕事の完成には、市井の中国人の亲切な友情が不可欠だった。
戦争は国と国との関系、友情は人と人との関系だと、つくづく思う。友情の记忆が戦争のそれより伝わりにくいのは、そんなスケールの差と関系があるのだろう。それだけに、こまめな友情の积み重ねが大切になる。この「日中飞鸿」というコラムも、新闻社と新闻社という関系より、记者と记者、人と人という要素が强いように见える。そういえば、このコラムの笔者、编集者が记事をやりとりするメーリング?リストの名前は、确か「friendship=友情」と名付けられていたはず……。
重在友情积累
穴吹史士
说起来不好意思,宫岛大八和张裕钊的名字,我都是第一次听说。说句搪塞的话,执笔这个专栏的日本人中,只有我一个人不是中国问题专家。对于其他执笔者来说,也许是理所应当知道的人物,可是,我想大多数的日本人同我一样,对于这两个人,均是一无所知。
日本的历史教学,对中日间的纷争,比如太平洋战争、甲午战争还有那以前的战争都有所介绍,面向一般读者的书也很多,因此大家都有些基础知识。但是说到日中友情,说到为增进日中友情不遗余力的人们的事迹时,信息资料却极其地少。
为了不使悲剧重演,经常回想战争、反省战争是很重要的工作。但这并不是说,对友情的足迹一无所知也无所谓。然而,友情的话题涉及太多,被怀疑是不是要转移人们对战争的视线,是不是在讨好对方等等,这种情况也是常有的,而且不仅限于日中之间。
从7世纪到9世纪,日本不断向隋、唐派遣正式使节,史称遣隋使、遣唐使。虽然海难带来了死亡和失踪,派遣仍然持之不懈,日本的小学校也在教授这些史实,然而与其他领域相比,这方面的研究者很少,象样的研究着作也不多。原因在于,如果深究的话,日本的古代和中世的政治、文化基础基本上都是从中国来的事实就会明白无余,这不符合战前的强调本国优越性的潮流。多么狭隘的学术姿态啊。
我因为工作关系,现在正在研究9世纪中叶越海留唐的一位叫圆仁的佛教僧的情况。他以逃离遣唐使队伍的方式滞留中国,直到遭遇武宗的中国历史上最大的宗教镇压,受到追放为止,九年中辗转中国各地。同宫岛大八一样,圆仁去中国也是为了“拜师”,追求学问的精神十分感人。经过一番劳苦,最后到了长安,幸遇了几位名师。
圆仁写有详细的日记,其中包含了中国正史中遗漏的贵重记录。首先发现这部日记所具有的世界史价值的是原驻日美国大使赖舍尔博士。也许这也可以说是日本的历史学家对国际关系研究冷淡的一个证据。
读圆仁的日记,给我印象很深的是,他所到之处接触的市井平民们的深厚友情。有的人主动给他当远路的向导;有的人把自己的朋友和宿舍介绍给他;还有的人,为他准备路途用的食粮与衣物。圆仁回国后,成为大宗派之长,他在中国学到的当时最先进的思想在日本得以传播光大,这其中不仅是他的长安老师的贡献。圆仁事业能有所成,更与那些平凡的中国人的友情分不开。
我深切地感到,战争是国与国的关系,友情是人与人的关系。友情之所以比战争难以流传,大概是由于二者的规模太过悬殊。也正因为如此,点点滴滴的友情积累就更为重要。这个“日中飞鸿”栏目也是一样,与其说是报社与报社的关系,不如说是记者与记者、人与人的要素更强一些。话说到这儿,我突然想到,这个栏目的笔者、编辑们为共同作业而使用的邮件列表,名字正是“friendship(友情)”……
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